なんか最近懐疑的な性格を拗らせてる気がする。果たして本当にそうなのか。
タイトルにある通りである。最近色々なものが信じられなくなっている。ニュースに対しても「その報道は偏ってるんじゃないか」とか「報道すべきはそこじゃないやろ」みたいなツッコミばかりしている。
他者だけではなく、自分の言葉も信じられなくなってきた。「明日10時に学校の食堂で集合!」だと何度も友人に確認したはずなのに、翌朝10時、私はまだ家にいる。大学までどれどけ急いでも50分はかかる家に居る。そんな私が集合時間に間に合う確率はどれくらいだろうか。あまり高いとは言えない。「10時集合」を強調してた昨日の自分のうそつき!!めっ!めっ!(>_<) なにそれかわいい笑
めっ!(>_<)
なにこれかわいい…のだが、では何故私はこんな懐疑的な人間になってしまったのだろうか。学校で習ったことによると、青年期の自己形成には幼い頃の記憶や体験が深く関わっているらしい。しかし、本当にそうなのだろうか。
あーでも、これも疑ってしまうと話が進まないので、これは真実であるということにしておく。ここだけは懐疑的なキャラのことを忘れてほしい。キャラなんて言ってない。
さて、青年期の自己形成には幼い頃の記憶や体験が深く関わっているということは自明であるが、私は懐疑的な性格になってしまうような体験を特にしていないはずだ。極めて一般的な子供時代だったと記憶している。おむつをしてるからもしもの事があっても大丈夫だよって言われたのに全然大丈夫ではない事態に陥り、えげつなく怒られたり、寝る前に絵本やウィキリークスの読み聞かせをしてもらったり…
普通にそんな感じだった、普通に。
あ、幼少期の体験ではないが、懐疑的になるきっかけとして思い当たる節がひとつだけある。
一度外国人観光客に道を尋ねられ、目的地と真逆の方向を指差してしまったことがある。その人は笑顔でお礼を言ってくれたが、南米とかを経由するルートでない限り、一生の目的地にたどり着くことはない。どこかのタイミングで私の案内が虚偽だったということに気づいただろう。
書きながら気づいたが、これは私ではなくその観光客が懐疑的になってしまうエピソードだった。間違えた。
いや、しかし、性格はうつると言われる。その観光客に芽生えた懐疑の精神が一瞬のうちに私に飛び火したのかもしれない。
いや、そもそも性格は本当にうつるのか?そこから疑っていく必要があるだろう。
いや、そんな必要があるのか?人は、他の人と関わって生きていく生き物だ。周りの人の性格や考え方に影響されることは当然のことでないか。
というか、本当に人は他の人との関わり合いのなかで生きていくべきなのだろうか?
もはや全て疑わずにはいられない。
しかし、そんな私でも、ひとつだけ本当のことを知っている。あ、「青年期の自己形成がなんたらかんたら」を失念していた。ふたつだけ本当のことを知っている。
青年期の自己形成に幼少期の体験が影響することと、108の煩悩フルコンボだドン!に人類で最も近いのは瀬戸内寂聴だということだ。
それと、今とてもお腹が空いていること。 これは紛れもない事実だ。
さぁーてと、チキンクリスプでも買って帰るか。(日常描写で締めくくる)(プロのラストセンテンス)
終